「少数派」は「群衆」を見下そう

 

 

「群衆」は馬鹿だ。

 

いつの世も例外なく馬鹿だ。

 

 

 

 

そしてこれまた、いつの世もいる、

引っ張っていく、何かを生み出す、「少数派」の人たちは、

 

群衆を神格視してしたがおうとしたり合わせようとしたり、

群衆を敵対視してまともに争い合おうとしたり分かり合おうとしたり、

 

そうやって群衆に何かを期待してしまうと、

ものすごく苦しい人生になると思う。

 

 

せっかく恵まれた能力があっても、

群衆に何かを求めてすがっている限り、それはむしろ自分を苦しめる原因にしかならないと思う。

 

 

 

 

群衆でない、馬鹿でない、少数派に生まれた人は、

 

ある意味、群衆のことは見下すくらいがいいと思う。

 

 

ある意味ね。

 

結局は群衆もみんな仲間だし、時には批判によって本質をついた忠告をしてくれてることもあるし、

こっちのやり方次第ではものすごくありがたい最高の支えになってくれたりするんだけど。

 

 

 

 

とにかく、同じ土俵には立たない。

上にもおかない。

 

 

まぁ分かりやすく言えば配下におくこと。

 

 

 

 

自分が、そういう大勢の群衆を引っ張っていく、改革していく、新たなものを生み出していく、

「リーダー側の人間」である自覚をしっかりもつこと。

 

 

謙虚さは大切だけど、

余計な謙遜だの卑下だの自信のなさだの他力本願だの引っ込み思案だのはさっさと捨てて、

 

リーダーとして自分を堂々と表現し、その責任を負う覚悟を決めて進むこと。

 

 

 

 

群衆を下に見る、っていう感覚は、

 

近いのは、親子の関係かな。

 

 

子はある意味、未熟で馬鹿。

親はある意味、子のことを見下してる。

 

同じ土俵に立っていない、無理な期待をしていない。

子供は最初から馬鹿で未熟で当然の存在だって分かってるからこそ、かわいいと許せる。リードして子を導いてやれる。

 

逆に「子を馬鹿で未熟と思うなんて失礼だ!対等に扱うべきだ!」

 

って、変に子を過大評価して期待するような親は、

子が未熟なことをしたとき、落胆して軽蔑することになる。

そっちの方が子を傷つける、愚かな親だ。

 

 

 

で、親が子を、下に見ているからって、

「じゃあ親は子を否定して軽んじてるのか?」っていったら、とんでもないよね。

 

親は子のことを心から愛してる。

もちろん、子も親を。

 

 

 

 

 

少数派のリーダーと、群衆の関係も、

たぶんそんなイメージだと思う。

 

 

「親」が少数派で、

「子」が群衆。

 

そこにはある意味、上下関係がどうしても出てくるけど、

そこにはちゃんと愛がある。

 

(愛なしの上下関係でやってるリーダーもいるけど、大体しっぺ返しを食らうだけだからやめたほうがいいと思う)

 

 

 

少数派の人は、その群衆との上下関係をおそれないこと。

罪悪感だの、自信のなさだのは捨てること。

 

 

自分が大勢の人達の上に立ち、その賞賛を受け、その批判を受け、その責任を受けることを、覚悟すること。

 

逃げるのをやめて、正面から、堂々とその役目を引き受けること。

 

 

 

 

 

「少数派」の人生は、

 

とてつもない苦しみと、

とてつもない幸せの、

 

両極端だと思う。

 

 

 

その違いはたぶん、

 

「自分というものをありのままに自覚して、心から受け入れて、その使命をまっとうしたかどうか」

 

なんじゃないかな。

 

 

 

まぁそれは、少数派に限らずすべての人に言えることなんだけど。

ただ、苦楽のふり幅が、少数派の場合は尋常じゃなく激しいと思う。

 

 

 

 

少数派は、生まれつき背負わされている使命が大きい。

 

でも、ちゃんとその使命を果たすために必要なものも、

同じく生まれつきすべて与えられてる。

 

 

 

だから、本当は何も心配いらない。

少数派は不幸じゃない。

 

 

気づくだけだ。

受け入れるだけだ。